寮は自宅が遠くて通えない生徒が入る寄宿舎。私が自彊寮に入ったころも、宮古、釜石、大船渡など沿岸部出身者の生徒が多かった。今回、東北関東大震災で被災した当時の仲間もいるかもしれない。いちばん仲の良い、今でも連絡をとっている寮時代の友人は宮古出身。彼も今は関東圏で家庭をもっているが実家はどうか心配で聞いてみたら、ご両親は久慈に引越しして、今回は避難していて無事とのこと。他の仲間やその家族、みんな無事でありますように。

一度、自彊寮に入ると寮生同士は家族同然。俗に同じ釜の飯を食った、という言葉があるがまさにそんな感じ。特に仲のよい者同士はなんでも話せる関係になる。好きな音楽、本、マンガ。いちばん仲の良い友人とはお互いクリスチャンということもあって宗教の話もした。遠藤周作の「沈黙」についてけっこう深い話をした記憶がある。

でもま、高校生だから他にも切実な問題もある。ちゃんと彼女がいる寮生はごくわずかで、そういう寮生はたまーに外泊したりしてた。私は主にエロマンガが好きで、中島史雄なんかを気に入って持っていた。そういうのも特に隠すことなく、要望があれば貸したり借りたりしていたものだ。

寮生は学校を休んでもとがめる家族がいないから、わりと気軽に遅刻したり早退したりする。もちろんそんな寮生はごく一部だが、私も喘息の持病があったせいでちょくちょく遅刻したり早退したりした。ある日、私が学校から早退して寮に帰り、自分の部屋の扉をガラッと開けると、ある友人が私の万年床に横になって中島史雄のマンガを読んでいた。「あ、邪魔してた。ほんじゃ、またね」とかなんとか作り笑いを浮かべながら彼は退散していった(笑)。私はそういうことにもけっこう平気で、仲よくなればそのくらいのことあるだろう、ぐらいの気持ちだった。でも、彼がパンツを脱いでいたりしてなくてよかった……。さすがに現場をおさえたとなるとバツが悪い。

そんなことがあってもその友人ともその後、気まずくなることもなく、あのマンガいいでしょ? うんうん、今度貸してよ、ぐらいの調子。彼も医学部に進んだからお医者さんになっているはずだが。とても気持ちの良い仲間たちだった。


寮の読書室には先輩寮生が置いていった雑誌類も積み上がっていて、その中に早川書房の「SFマガジン」と徳間書店の「SFアドベンチャー」があった。中学のころから筒井康隆で始まってSFは大好きだったが、文庫本ばかりで読んでいて雑誌は読んだことがなかった。そこで、寮では10年分くらいの「SFマガジン」と「SFアドベンチャー」を丹念に読んだ。

当時はちょうどサイバーパンクの出始めのころ。文庫本で読んでいると流行りなどとは無縁で、私はだいたい10年から20年前の作品を読んで、それを新しいものとなんとなく感じていた。しかしリアルタイムのSF界はもうちっと進んでいた。

たとえば、アイザック・アジモフ、アーサー・C・クラークの小説のように、人類や文明の成長と未来を描いたものを読み刺激を受け、いろいろ思いを馳せたりしていたものだが、サイバーパンクが表現する未来は「成長」ではなかった。未来は「拡大」と「混乱」。エントロピーが増大していく社会と現実が描かれており、これはまるで21世紀の予言の書である。ウイリアム・ギブソン「ニューロマンサー」とブルース・スターリング「スキズマトリックス」はバイブル的存在。

話しがそれたが、「SFマガジン」と「SFアドベンチャー」の膨大なバックナンバーを読む機会を得たのは、とてもよいことだった。どっちでどんな記事を読んだか定かでないが、確か「SFマガジン」のほうでヒューゴー賞ネビュラ賞の特集が年に1回あって、そこでダニエル・キイス、アーシュラ・K・ルグィン、オースン・スコット・カード、グレッグ・ベア、コニー・ウィリスなどを知って、少しずつ読んでいった。

「SFアドベンチャー」のほうでは主に国内の作家の作品を読んだと思う。すぐに思い出すのは平井和正の「真幻魔大戦」。「幻魔大戦」シリーズはあまりにも遠大なので、敬遠していたが、「真」や「新」は雑誌で読んで、お、けっこうおもろいじゃん、と思った記憶がある。あとは、かんべむさしや横田順彌の連載とか気に入っていたような。

中学時代は盛岡市とはいえ、ほとんど店もないいなか暮らしだったので買い食いという習慣はなかったが、街中にある高校に通うことになり、高校時代は自分で適当にものを買って食べたりするようになった。とはいえ、お小遣いがたくさんあったわけでないので、自宅から通っていた1、2年生のころは母親に弁当を作ってもらっていた。その弁当はだいたい1時間目か2時間目が終わったところで休み時間にガガーっと早弁。そしてお昼にお腹が空くと、適当にパンなど買って食べたりしていた。

このときお世話になったのが「福田パン」。盛岡の人ならだいたい知っている、大きめのコッペパンにさまざまなネタをサンドしてくれるアレ。福田パンの店舗が一高から近かったので、昼休みによく自転車で買いに行った。「福田パン行きます」というと先輩や友だちからもよく注文された。私が好きだったのはツナやコンビーフのポテトサラダ入りというやつやブルーベリークリーム。サイズが大きいので1つで十分だったが、たくさん食べたいときは2つ買う。それでも1つ100円前後の値段でリーズナブル、一高生の間でも大人気だった。

忘れちゃいけない一高生御用達といえば「白龍」のじゃじゃ麺。ここは岩手公園のたもと桜山神社近くのレトロな商店街の一角で、一高からは遠かったので平日の昼に行くのは無理。だいたい土曜日の昼に友人と行っていた。最初に連れられて行ったときは、ふーん、という感じ。なんかピリっとしないなと思っていた。でもあの狭くて古ぼけた店にみんなで繰り出すという行為が楽しくて、誘われると「行こう行こう」と嬉々として食べに行っていた。そのうちに酢をたくさん入れる技を発見して、それからは味にもハマり、やめられなくなった。人によってアレンジが違うのだが、私の場合は酢が決め手だった。ここは一高生やOBがよく集まる店で、帰省した際に食べに行くと、誰かしら友だちや顔見知りと会ったものだ。

三軒茶屋に7年前くらいにオープンした「じゃじゃおいけん」という店があって、ここがいい感じの盛岡じゃじゃ麺専門店。もちろん店主は盛岡出身。「白龍」と同じ感じのじゃじゃ麺が食べられる。今では「じゃじゃおいけん」のほうが美味しいかも。二子玉川に住んでいるときは、仕事の帰りにわざわざ三茶で途中下車して食べに行っていた。週に1度通っていたときもある。最後の鶏蛋湯を飲み干したときの幸福感は最高。やっぱりここも盛岡出身の人が集まるようだ。

高校3年は寮生活だったので、昼は弁当がなく、どこかで昼飯を調達していたはず。頻繁に行っていたのは校舎から近い、盛岡上田郵便局のとなりの2階の喫茶店。おしるこの高島屋の向かい辺り。現在は道が拡張されて、建物自体がなくなっているようだ。もう店名も覚えてないが、ここはバンド仲間に教えてもらったと思う。小さい店で、テーブルの代わりにアーケードゲームが6台ほど置かれていた。ゲームやる人もやらない人も、ゲーム台をテーブル代わりにするという昔よくあったスタイルだ。ここのナポリタンとシーフードスパゲティが美味しくてボリュームがあって、大のお気に入り。また、ゲームをプレイして何万点以上出すとドリンク1杯無料というサービスがあって、私はいつも50円でハイスコアを出してドリンクを頼んでいた。ゲームは「マッピー」か「ザ・ビッグプロレスリング」なら百発百中。「エレベーターアクション」は微妙だったかも。

ここの喫茶店は有線放送がかかっていて、よく店内の公衆電話でリクエストをした。有線の電話番号にかけてオペレーターに曲名を告げると、数曲後くらいに自分がリクエストした曲が流れるのだ。ハービー・ハンコックの「Rockit」をこの喫茶店で初めて聴いたことをよく覚えている。他の高校に行った中学時代の同級生と音楽談義をしていて、その友人がハービー・ハンコックの新曲は凄い、度肝を抜く、とか力説していたそのときに有線から「Rockit」が流れてきて、友人が「あ、これ!」と言ったのだ。ヒップホップ知らなくて聴いたから、私もガーンときた。

ちょっと学校を抜けだしてはこの喫茶店には行っていたが、500円のスパゲティを毎日は経済的に無理なので、週に1度か2度くらいか。今だから言えるが、昼休みにスパゲティ食べに行って、午後の授業がやんなって出なかったとか、けっこうあったと思う。親元を離れた高3時代はかなり自由奔放にやらかしていた。

電話は玄関近く、食堂の前あたりに1台、黒電話があった。電話はそんなに頻繁にかかってくるわけではなかったが、それでも鳴ったら誰かが出て取り次がなくてはならない。この電話番は電話機に近い部屋の人間が受け持っていた。電話が鳴ったら近くの部屋の住人が、バタン、ドタドタとダッシュ。呼び出したい寮生を電話口でうかがって部屋まで呼びに行く、そんなシステムになっていた。だから電話機に近い部屋には1、2年生が割り当てられ、3年生は電話番しなくてもいいように遠い部屋に住むようになっていたはず。ただ、たまたま通りがかったときに電話が鳴ったり、食堂にいるときに電話が鳴った場合、いちばん近くの人が出る、というルールでもあった。現在はバンカラ一高生といえども携帯電話を使っているだろうから、自彊寮でも電話ダッシュはなくなったのではないか。

かかってくるだけでなく、寮の電話でこちらからかけることもできたはずだが、その電話使用のルールが思い出せない。そういえば私は高校生のころまで友だちと電話で話すとか、そういうことをした記憶がない。寮にいたときも寮の電話でどこかにかけた記憶がない。たまに母親から電話がくるくらいだった。それも業務連絡レベルの内容。多分、現在の高校生は、ちょっとしたことで友人に電話したり、メールしたりしてコミュニケーションしていると思う。私が高校生だったころは、そういう友だちとのコミュニケーションは学校ですべて直接話すことですべて成り立っていた。絵画部の友人、クラスの友人、バンド仲間、生徒会などなど、みんなface to faceである。約束事はきちんと日時、場所を決めておいて、何度も確認しなくてもちゃんと集まる。それが当たり前だった。隔世の感がある。20数年前、当時の一般的な高校生は電話はなくてもぜんぜん不自由ではなかった。

あと暮らしに欠かせないものといえば、洗濯。寮には洗面所に2~3台の洗濯機があって、自由に使えた。問題は干す場所。自室は狭すぎたし、ベランダもない建物だった。私は結局、洗濯は寮の洗濯機でして、乾燥は近くのコインランドリーの乾燥機を使っていた。歩いて5分くらいのところにコインランドリーがあり、100円入れると10分間乾燥できるんじゃなかったか。だいたい200円で間に合っていたと思う。寮には数は少なかったが空室があり、そこで干す人もいたと思うが、大多数はコインランドリー派だったようだ。

食堂には共用の冷蔵庫があった、気がする。これもおぼろげ。ソフトドリンクやら牛乳やらお菓子やら、各自買ってきては名前をマジックで書いて入れておく。私は冷蔵庫も使った覚えがない。そういうソフトドリンクやコーヒーを飲む習慣は私にはなかった。他の部屋では電気湯沸かし器などを持ち込んで、コーヒーやお茶を飲んでいた寮生もいたが、私はほとんど飲まず食わずだったような。今思えば、子どものころは間食はあまりしない感じだった。

日曜日には朝の体操はなし。日曜日って寮で食事出たっけか。うーん、日曜日は寮母さんお休みだった気がする。なので各自適当に食べる。日曜日は炊事場を使えたかも。うどんを茹でるとか、やっていた寮生がいたような。すべておぼろげ。あんまし寮での食事は覚えがない。高3のとき食べ物でいちばん覚えているのは、盛岡上田郵便局となり、2階にあった喫茶店のシーフードスパゲティ。ツナとワカメとかが入った塩味スパ。よく食べたなー。
自彊寮の日常を思い出しながら書いてみる。もう記憶が定かでなく、間違いも多いと思う。だが、今まですっかり忘れていた記憶の底に眠っていたものを、少しずつたぐり寄せて書いてみるという作業は、思いのほか楽しい。

自彊寮の1日は日直(と言ったと思う)の「起床ー! 起床ー!」という大声で始まる。朝7時、日直がドタドタと廊下を走りながら寮内を駆け巡る。狭い寮内、日直が走りまわると、建物もボロなものだからバタバタギシギシ、うるさいことこの上ない。この号令で起きた寮生はそれぞれの部屋からぞろぞろと出てきて、玄関から外に出る。朝の体操である。寮の前の公道は元みどり学園につながる行き止まりの道路で車通りはほとんどない。その道路で毎朝30人弱の寮生が整列し、体操をする。たしか部屋の番号順に並び、朝の点呼を兼ねていた。体操はラジオ体操とはちょっと違っていたと思う。雨の日はやらなかったか、雨の中の体操は記憶がない。

体操の後、今度は食堂にぞろぞろと入り、一斉に朝の食事。食事が済んだら順次、部屋に戻り、登校の準備。寮から学校まで自転車で10分程度。ホームルーム開始が8時40分だったと思うので、寮生はだいたい8時15分ごろ寮を出た。日直が8時半前に玄関のカギを閉め、最後に調理場の勝手口から出て行く。平日の昼間は玄関はカギが閉まっているので、遅刻したり早退した寮生は、勝手口から出はいりすることになる。

授業が終わって、早い寮生は午後4時前くらいに戻ってくる。最初に帰ってきた生徒が勝手口から入り、内側から玄関のカギを開ける。一高生は部活するのが基本だから、早く寮に帰ってくる人間はそれほど多くない。午後6時ごろが帰寮のピークか。晩飯は7時ごろから出されたと思う。夜は朝のように一斉ではなく、好きな時間に食べていたはず。最後は9時くらいで、それまでに「残しておいて」などの連絡がない分は、食べたい人間が食べてしまっていたように記憶している。

風呂は1日置きだったか。今日が部屋番偶数だったら、明日は部屋番奇数が風呂の日、といった具合。特に広い風呂場ではなく、一般家庭の風呂と同等。そこに2人ずつ交代に入ったと思う。出た人間が次に声をかけるようになっていたはずだが、詳しいシステムは覚えてない。一覧表があって、誰が入って誰が入ってない、とわかるようになっていたような気もするが。また、夜になっても帰ってこない寮生もいたはずなので、そこらへんどういう順番で回していたか。よく覚えていない。

夜10時に点呼。時間になるとまた日直の号令があり、自分の部屋の扉の前で立って宿直の先生の点呼を待つ。これでいちおう1日おしまい。消灯はなく、この点呼の後、各自、自室で机に向かって勉強する、のが一般的な良い寮生。点呼の後、すぐに娯楽室に行くのは気が引ける感じだったので、私もまずはおとなしく自室に戻り、頃合いをみて娯楽室に移動していた。

日直は3年生は免除だったような気がする。私は3年になってからの入寮で、最初のうちは日直やっていたはず。「起床ー!」と叫んで寮内を巡った記憶はある。その後、私も免除になったような。その他、トイレ掃除当番、風呂掃除当番もあった。これは部屋の順番に巡ってきた。私は前述のとおり、ほとんど一人部屋で過ごしたので、一人部屋の気ままさの代わりに掃除当番は一人でやらなくてはならなかった。ぜんぜん苦ではなかったが。


6畳間に2人。このシチュエーションを受け入れられるか否か、が寮生活の肝と言っていいだろう。誰と同室になるかは寮長などの専決事項だったはず。基本は上級生と下級生の組み合わせになる。私は新寮生だったが3年だったので、同室は1年生だった。もう名前も覚えてないが、物静かな真面目そうな生徒だった印象がある。あんまり話をした記憶もない。私は面倒見のよくない先輩だった。

ほんとは、上級生が自室でガリガリ勉強して、それを下級生も見て頑張る、というのが美しい図なはずだが、私は外に出歩くか、娯楽室にいるか、部屋では音楽を聴いたり本を読んだりと、同室の彼からするとがっかりな存在だったかも。今思い返すとそんな気がする。ちょっと悪いことした気分。そのせいか、彼は3カ月もしないうちに寮を出てしまった。いや、私が原因じゃないといいんだが。

当時の私はそんなことには無頓着で、単純に部屋を独り占めできることに喜んでいた。6畳を1人で使えるというのは、私のやりたい放題に拍車をかけた。早速、大きめのスピーカーやステレオを持ち込んだ。どうやって運んだのか、記憶がないが。それで娯楽室に入り浸る時間も減ったはず。音楽はよく聴いた。寮の友人も音楽大好きな人間ばかり。テープを貸し借りしたり、情報交換をしたり。私がミュージックマガジンを読み始めたのも、寮生の友人に教えられてだったような気がする。以来、ミュージックマガジンにはとにかくお世話になった。

高校時代は何を聴いていただろうか。何でも聴いた。特に寮生活になってからはレンタルレコード屋が近くなり、レンタルする頻度も高くなったはず。FMのエアチェックもマメにしていた。寮生活で出会った音楽で印象に残っているのが爆風スランプとブラックウフルである。

爆風スランプは私が高3のときにデビューなはず。寮の部屋でFMで初めて聴いて、すぐに大のお気に入り。「涙の陸上部」「週間東京少女A」「無理だ!」、デビューアルバムはどれも素晴らしい曲ばかり。こんなにしっかりした演奏するのにお笑い?というそのギャップも、私の人生で初めての経験で、衝撃を受けた。このスタイルに私はかなり影響を受けたような気がする。後に埼玉大学の蒼玄寮に入るとき、寮生による入寮面接があるのだが、そこで「週間東京少女A」を絶唱した(笑)。

ブラックウフルはテレビで観た「ライブアンダーザスカイ」で初めて目撃。私は当初、大好きなハービー・ハンコックを観たくて、他の寮生数人といっしょに娯楽室でテレビにかじりついていたのだ。ハービー・ハンコックは夜の部で、テレビではまず昼の部のブラックウフルのライブからだった。レゲエは知らない世界。ボブ・マーリーのようなゆる~いイメージぐらいしか持ってなかった。ところがステージに出てきたマイケル・ローズのカッコよさに目が釘付け! 明るい陽光の下に真っ白のスーツ上下で出てきたマイケル・ローズ。そして足元は素足! すごいビジュアル! そしてあの咆哮。スライ&ロビーのソリッドな響きも好感を持った。この時以来、ブラックウフルのファン。

後日、この「ライブアンダーザスカイ」に感激したことを寮内で話していたところ、2年生の1人がこれを東京で生で観てきたという。その彼は当時応援団で、ジャズやレゲエみたいな音楽とは見た目まったく結びつかなかったので、とてもびっくりしたし、羨ましく思った。でも一高生は文武両道をよしとする校風で、勉強できるだけでなく、スポーツできたり文化教養もないと威張れないという雰囲気があり、実際、そういう引き出しの多い魅力的な人間が多かった。バンカラの小汚い格好をしている応援団員も、中身はおしゃれでスマートな人間、という場合がほとんどだった。自彊寮の生活はそういう人間といっしょに暮らした、とても刺激的な楽しい1年間だった。

今の基準からすると、不自由で大変な生活環境と思うかもしれないが、私は寮生活を楽しんでいた。満喫していた、と言ってもいいくらい。食事は寮母さんがいて食堂で朝晩きちんと出る。仲良しの友だちといっしょの釜の飯を食うのも楽しければ、常に話し相手がいるような環境で、居心地悪いことはまったくなかった。本や漫画は火事でなくしていたが、友だちからすぐに借りることができた。ヘッドホンをすれば音楽を聴いて一人の世界に入ることもできる。

確か門限が夜9時だったか。それまで市街地から遠い自宅だったが、寮は大通りあたりまで自転車で20分くらい。大好きな本屋での立ち読みや、ゲームセンターに入り浸ったりができるようになった。門限があるとはいえ、電話で「今日は帰りません」ときちんと寮に連絡すれば外泊も問題なくできた。たとえば実家に泊まります、などと理由をつけて、ゲームセンターで夜明かしもけっこうやった。当時は風営法以前で盛岡にも24時間営業のゲームセンターがあった。大通りと映画館通りの交差点近くの「ネットワークインタイトー」というゲームセンターが溜まり場だった。また、文化祭前の学校泊まりこみや、バンドの練習などもやりやすくなり、高校生活を謳歌してしまった。肝心の勉強はまったくやらなかったが。

自彊寮は木造2階建て。上から見るとコの字型といった感じで、1階2階の端っこ、角部屋は10畳くらいの広い部屋になっている。これが娯楽室。北側2階、玄関の上が2年生専用の娯楽室、南側1階が1年生専用、南側2階が3年生専用と学年ごとに決まっていて、基本、その学年以外の人間は立ち入り禁止。全体の会議などは食堂でやるとして、学年ごとに話し合いを持ったりする場合もこの部屋が使われる。普段はその名のとおり娯楽室で、各部屋にはテレビがなかったが、ここにはテレビが置いてあり、好き勝手に観ることができる。私の部屋はこの娯楽室のとなりのとなりで移動しやすく、寮にいる間はかなり娯楽室にいる時間が多かったと思う。

寮生は遠くからわざわざ盛岡一高に入りたいとやってきた志の高い生徒が大半で、勉学に励む成績優秀者が多かった。だから娯楽室があっても顔を出さない生徒も多く、一方、私みたいな娯楽室常連は少数派。自彊寮のいいところはみんなが勉強やっているから、オレも頑張らなくちゃ!という気持ちにさせる、切磋琢磨できる環境があるということ。私はそんなところに入れてもらっても、まったくマイペースで机には向かわず、本を読んだりテレビを観たり、外に遊びに行ったり、今思えばやりたい放題。日曜日、教会の礼拝に通っていたはずだが、そんな記憶よりも、日曜日の朝早くからゲームセンターに行っていた記憶ばかり蘇ってくる。両親と住んでいたらそんな生活はとてもじゃないけど無理だったから、ここぞとばかりそんなことやっていた気がする。楽しかったな~。

私が高校2年生の三学期、春休みも近かった3月に自宅が家事で全焼。当時、父親が雫石高校で教鞭をとっていたので、両親は雫石に家を借り、私は盛岡一高の宿舎「自彊寮」に入って、高校3年の1年間だけそこから通うことになった。

自彊寮は私にとってはなじみのある場所。父親が一高の教員だったこともあり、小学2年生まで緑が丘二丁目のこの寮のとなりの教員住宅に住んでいた。当時はまだみどり学園があり、そのグラウンドでよく遊んだものだ。自彊寮の学生とも仲良くなり、グラウンドでキャッチボールをしたり、寮生がテニスをするのを眺めていたりしたのを記憶している。いちばんの思い出は自彊寮の読書室。玄関から近いこの部屋には漫画や本がどっさり置いてあって、私は部外者にもかかわらず勝手に寮に入っては、この部屋で漫画を読みふけっていた。寮生とはだいたい顔見知りなので、とがめられたり怒られたりすることもなく漫画を読めて、そこは静かで落ち着いた私にとって天国のような場所だった。

その約10年後、盛岡一高に入学はしたが、自彊寮で生活することになろうとは夢にも思わなかった。10年経っても小学生のころと同じ、古い建物。外側の壁はツタがはい、ヒビが入っている。ギシギシと音がする板張りの廊下、立て付けの良くない玄関。部屋は六畳間に2人が基本。部屋の扉を開けると半畳ほどの板の間でここでスリッパを脱ぐ。半畳分くらいの押入れが2つあり、それがそれぞれの物入れになる。木枠の窓はすきま風が入り、断熱効果はほぼゼロ。にもかかわらず寮内では安全上、ストーブ使用禁止だったので、暖房はこたつのみ。盛岡の寒い冬を寮生は綿入などを着込んで、こたつに入ってしのぐことになる。

六畳間に2人というと単純に1人のスペースは3畳分。机を置いてあとは布団を敷くといっぱいいっぱい。だからだいたい寮生は自分専用の押入れに突っ込むかたちで布団を敷いて、下半身は押入れの中、というスタイルで寝る。そうやって少しでもスペースを稼いだのだ。夏の間はまだいいが、冬はこたつが必需品。2人のうちどちらかがこたつを持ち込み、2人でひとつのこたつを使う。畳の見えるスペースはなくなり、冬の間は布団を敷いてそこに座り、こたつに入るという感じ。もともとずぼらだった私は当然のように万年床になった。

本来、自彊寮は1年生から入るのが原則で、私のように上級生になってからの入寮はめったにないことだった。自宅の焼失という事情から、特別に3年生からの入寮が認められた。全部で20室くらいの小さな寮だったが、やはり100年近い歴史があり、いろいろな伝統行事がある。つまり、新入生を歓迎する類のものである。だから上級生が寮に新しく入ってくるというシチュエーションは、寮生からするといささかとまどいがあったようだ。たまたま私は仲の良い寮生の友だちが多く、まさに気の置けない仲間もいたので話しやすく、行事には1年生と同じ扱いでやってくれ、という私の希望通りになった。盛岡一高というと恐怖の応援歌練習が有名だが、寮でもけっこうビシビシやったはず。

それと思い出すのは高松の池周辺での肝試し。新入生が一人ずつ高松の池の周りの林の中を歩くのだが、途中で新入生には知らされてないドッキリがしかけられている。寮生OBが突然現れて絡んでくるのだ。「こんな夜遅くに何やっているんだ」「どこの高校だ?」などなど高圧的な態度で新入生をイビる。肝試しのルールで、どんなことがあっても肝試し中はしゃべってはいけないことになっている。ルールを守って黙っていると、そのドッキリ仕掛け人のOBはどんどん激昂していく、というシナリオである。もちろん中にはこれは非常事態とOBに答えてしまう人も多かったようだ。ただ、そこはドッキリなので、OBはなんだかんだ言いつつ無理難題をふっかけてくる。私の場合はなんか余興をやれ、ということでさんさ踊りを踊った(笑)。これは事なきを得たパターンで、だいたい毎年身ぐるみ剥がされる新入生がいたらしい。ほんとに服を脱がされて、パンツ一丁、裸足で寮まで帰った新入生もいたようで、今年は誰々が裸で帰ってきた、とかいつまでも笑い話になる。高松の池から緑ヶ丘二丁目の寮まで2、3キロはある。いくら夜中とはいえ人通りはそこそこある界隈である。そこを白いブリーフだけの高校生がこそこそ小走りに走っていく風景は……、思わずニヤリ。下手すれば通報されそうだが、住民にとっても毎年春、見慣れた光景なのかも?!

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