ゲームセンターでバイト
2010年10月22日 日常高3のときから足しげく通ったネットワークインタイトー。このゲーセンにはなぜかDJブースがあった。店内は普段は有線の音楽が流れているが、このDJブースからも音楽を流せるようになっていた。たまにお姉さんとかがおしゃべりやレコードかけているのを見て、いいな~と思っていた。
ゲーセン通いのせいか(笑)、大学受験は失敗、浪人することになった。東京の予備校に行きたかったが、親と相談の結果、地元の予備校に行くことにした。両親は盛岡駅から歩いて10分くらいのところの新築マンションを購入、私も浪人時代はそこに暮らすことになった。予備校は大沢川原だったので、マンションから自転車で10分もかからないくらい。一高の寮よりもさらに盛岡の中心街に近く、刺激はいっぱい、という感じ。
予備校通いはいいが、ゲームセンター、本屋、レコード屋と他にも通う場所がたくさんあって、浪人時代は予備校通うより、その他に通うほうが多かったような気がする。で、ゲームセンターは例のネットワークインタイトーなのだが、そこに通ううちに私もDJのバイトをやることになった。きっかけや経緯が思い出せないのだが、多分、DJが駒不足になって誰かいないかなーと店側が探しているとき、店番バイトをやっていた先輩が私を推薦してくれたのでは、と思う。私はDJの経験はなかったが、とにかく音楽が好きでいろいろ聴いていたのは周囲はみんな知っていた。まぁ、DJと言っても店内放送の気軽なものなので、ぶっちゃけ誰でもいい、ぐらいのことだったと思う。
とにかく、私にとって夢のようなお仕事。バイト代は時給うん百円の安いものだったが、大きかったのはかけたい曲をレンタルレコードで借りてきた場合、そのレンタル代は会社で払ってくれたこと。今考えると、著作権の観点からやばい利用方法かもしれないが、当時はまだレンタル黎明期、疑問を持たなかった。私は聴きたい音楽はたくさんあるが、お小遣いが少ないから慎重に考えて考えてレンタルしたり買ったりしていたくらいなので、ここぞとばかりレンタルレコード店を利用した。いくらまでと制限もなく領収書があればきちんとレンタル代を持ってくれて、その上バイト代ももらえるという、最高のバイトだった。
DJは私を入れて4人くらいでシフトを組むことになった。専門学校生だったと思うが年上のお姉さんDJが2、3人。お姉さんたちは友だち同士だと記憶している。もう1人、盛岡一高在学の男の子も1人。彼は放送研究会所属で、おしゃべりができるバイトということでやっていたらしい。私は卒業していたが高校の後輩ということですぐに打ち解け、卓の使い方やら基本的なことは彼から教わった。だいたい毎日夕方の2時間くらいがDJタイム。一高生の彼は主に日曜日担当。平日を私とお姉さま方で分担した。
DJブースはふつうな感じ。いや、ゲーセンにおまけのように付いたブースとしては立派か。ターンテーブルが2台、カセットデッキが1台か2台、ミキサーもけっこうデカイの。あと、小さなFM発信装置。つまりここでミニFMをやっていたのだ。届け出が必要のない微弱な電波によるミニFM。いちおう、DJタイムはFM発信してラジオ放送という形にしていたわけだ。ミニFMなので、届くのはせいぜい数百メートル、大通りの端から端までカバーできるかできないか、ぐらいだったと思う。でも、自分の番組が電波に乗るというところでも、当時の私はドキドキしたものだ。
私の番組は音楽とその解説、みたいな感じになった気がする。ちょっとマニアックだったかも。内容についてもまったく自由にやらせてもらえた。まだ聴く人の立場になれるような余裕はなく、自己満足の域を出ないものだったとは思う。浪人中の夏休みにアメリカにホームステイをすることになったので、それを機会にバイトも辞めたと思うので、ほんとに数カ月のバイトだったが、いい経験だった。
ゲーセン通いのせいか(笑)、大学受験は失敗、浪人することになった。東京の予備校に行きたかったが、親と相談の結果、地元の予備校に行くことにした。両親は盛岡駅から歩いて10分くらいのところの新築マンションを購入、私も浪人時代はそこに暮らすことになった。予備校は大沢川原だったので、マンションから自転車で10分もかからないくらい。一高の寮よりもさらに盛岡の中心街に近く、刺激はいっぱい、という感じ。
予備校通いはいいが、ゲームセンター、本屋、レコード屋と他にも通う場所がたくさんあって、浪人時代は予備校通うより、その他に通うほうが多かったような気がする。で、ゲームセンターは例のネットワークインタイトーなのだが、そこに通ううちに私もDJのバイトをやることになった。きっかけや経緯が思い出せないのだが、多分、DJが駒不足になって誰かいないかなーと店側が探しているとき、店番バイトをやっていた先輩が私を推薦してくれたのでは、と思う。私はDJの経験はなかったが、とにかく音楽が好きでいろいろ聴いていたのは周囲はみんな知っていた。まぁ、DJと言っても店内放送の気軽なものなので、ぶっちゃけ誰でもいい、ぐらいのことだったと思う。
とにかく、私にとって夢のようなお仕事。バイト代は時給うん百円の安いものだったが、大きかったのはかけたい曲をレンタルレコードで借りてきた場合、そのレンタル代は会社で払ってくれたこと。今考えると、著作権の観点からやばい利用方法かもしれないが、当時はまだレンタル黎明期、疑問を持たなかった。私は聴きたい音楽はたくさんあるが、お小遣いが少ないから慎重に考えて考えてレンタルしたり買ったりしていたくらいなので、ここぞとばかりレンタルレコード店を利用した。いくらまでと制限もなく領収書があればきちんとレンタル代を持ってくれて、その上バイト代ももらえるという、最高のバイトだった。
DJは私を入れて4人くらいでシフトを組むことになった。専門学校生だったと思うが年上のお姉さんDJが2、3人。お姉さんたちは友だち同士だと記憶している。もう1人、盛岡一高在学の男の子も1人。彼は放送研究会所属で、おしゃべりができるバイトということでやっていたらしい。私は卒業していたが高校の後輩ということですぐに打ち解け、卓の使い方やら基本的なことは彼から教わった。だいたい毎日夕方の2時間くらいがDJタイム。一高生の彼は主に日曜日担当。平日を私とお姉さま方で分担した。
DJブースはふつうな感じ。いや、ゲーセンにおまけのように付いたブースとしては立派か。ターンテーブルが2台、カセットデッキが1台か2台、ミキサーもけっこうデカイの。あと、小さなFM発信装置。つまりここでミニFMをやっていたのだ。届け出が必要のない微弱な電波によるミニFM。いちおう、DJタイムはFM発信してラジオ放送という形にしていたわけだ。ミニFMなので、届くのはせいぜい数百メートル、大通りの端から端までカバーできるかできないか、ぐらいだったと思う。でも、自分の番組が電波に乗るというところでも、当時の私はドキドキしたものだ。
私の番組は音楽とその解説、みたいな感じになった気がする。ちょっとマニアックだったかも。内容についてもまったく自由にやらせてもらえた。まだ聴く人の立場になれるような余裕はなく、自己満足の域を出ないものだったとは思う。浪人中の夏休みにアメリカにホームステイをすることになったので、それを機会にバイトも辞めたと思うので、ほんとに数カ月のバイトだったが、いい経験だった。
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