私が高校2年生の三学期、春休みも近かった3月に自宅が家事で全焼。当時、父親が雫石高校で教鞭をとっていたので、両親は雫石に家を借り、私は盛岡一高の宿舎「自彊寮」に入って、高校3年の1年間だけそこから通うことになった。

自彊寮は私にとってはなじみのある場所。父親が一高の教員だったこともあり、小学2年生まで緑が丘二丁目のこの寮のとなりの教員住宅に住んでいた。当時はまだみどり学園があり、そのグラウンドでよく遊んだものだ。自彊寮の学生とも仲良くなり、グラウンドでキャッチボールをしたり、寮生がテニスをするのを眺めていたりしたのを記憶している。いちばんの思い出は自彊寮の読書室。玄関から近いこの部屋には漫画や本がどっさり置いてあって、私は部外者にもかかわらず勝手に寮に入っては、この部屋で漫画を読みふけっていた。寮生とはだいたい顔見知りなので、とがめられたり怒られたりすることもなく漫画を読めて、そこは静かで落ち着いた私にとって天国のような場所だった。

その約10年後、盛岡一高に入学はしたが、自彊寮で生活することになろうとは夢にも思わなかった。10年経っても小学生のころと同じ、古い建物。外側の壁はツタがはい、ヒビが入っている。ギシギシと音がする板張りの廊下、立て付けの良くない玄関。部屋は六畳間に2人が基本。部屋の扉を開けると半畳ほどの板の間でここでスリッパを脱ぐ。半畳分くらいの押入れが2つあり、それがそれぞれの物入れになる。木枠の窓はすきま風が入り、断熱効果はほぼゼロ。にもかかわらず寮内では安全上、ストーブ使用禁止だったので、暖房はこたつのみ。盛岡の寒い冬を寮生は綿入などを着込んで、こたつに入ってしのぐことになる。

六畳間に2人というと単純に1人のスペースは3畳分。机を置いてあとは布団を敷くといっぱいいっぱい。だからだいたい寮生は自分専用の押入れに突っ込むかたちで布団を敷いて、下半身は押入れの中、というスタイルで寝る。そうやって少しでもスペースを稼いだのだ。夏の間はまだいいが、冬はこたつが必需品。2人のうちどちらかがこたつを持ち込み、2人でひとつのこたつを使う。畳の見えるスペースはなくなり、冬の間は布団を敷いてそこに座り、こたつに入るという感じ。もともとずぼらだった私は当然のように万年床になった。

本来、自彊寮は1年生から入るのが原則で、私のように上級生になってからの入寮はめったにないことだった。自宅の焼失という事情から、特別に3年生からの入寮が認められた。全部で20室くらいの小さな寮だったが、やはり100年近い歴史があり、いろいろな伝統行事がある。つまり、新入生を歓迎する類のものである。だから上級生が寮に新しく入ってくるというシチュエーションは、寮生からするといささかとまどいがあったようだ。たまたま私は仲の良い寮生の友だちが多く、まさに気の置けない仲間もいたので話しやすく、行事には1年生と同じ扱いでやってくれ、という私の希望通りになった。盛岡一高というと恐怖の応援歌練習が有名だが、寮でもけっこうビシビシやったはず。

それと思い出すのは高松の池周辺での肝試し。新入生が一人ずつ高松の池の周りの林の中を歩くのだが、途中で新入生には知らされてないドッキリがしかけられている。寮生OBが突然現れて絡んでくるのだ。「こんな夜遅くに何やっているんだ」「どこの高校だ?」などなど高圧的な態度で新入生をイビる。肝試しのルールで、どんなことがあっても肝試し中はしゃべってはいけないことになっている。ルールを守って黙っていると、そのドッキリ仕掛け人のOBはどんどん激昂していく、というシナリオである。もちろん中にはこれは非常事態とOBに答えてしまう人も多かったようだ。ただ、そこはドッキリなので、OBはなんだかんだ言いつつ無理難題をふっかけてくる。私の場合はなんか余興をやれ、ということでさんさ踊りを踊った(笑)。これは事なきを得たパターンで、だいたい毎年身ぐるみ剥がされる新入生がいたらしい。ほんとに服を脱がされて、パンツ一丁、裸足で寮まで帰った新入生もいたようで、今年は誰々が裸で帰ってきた、とかいつまでも笑い話になる。高松の池から緑ヶ丘二丁目の寮まで2、3キロはある。いくら夜中とはいえ人通りはそこそこある界隈である。そこを白いブリーフだけの高校生がこそこそ小走りに走っていく風景は……、思わずニヤリ。下手すれば通報されそうだが、住民にとっても毎年春、見慣れた光景なのかも?!

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