“青”の魅力、アンドリュー・ワイエス
大学生のころ出会った、アンドリュー・ワイエス。彼の絵が私の中に大きく居座ることになったのは、1990年ごろ埼玉県立近代美術館の「ワイエス展 ヘルガ」を観てから。それまで私は、ワイエスは風景画、という印象を持っていた。ところが彼のヘルガ・シリーズを観てからは、そのデッサン力と人物の表現力に心を奪われた。人間を描くことでは、アルフォンス・ミュシャと舟越保武が私の大のお気に入りだったが、ここにワイエスも加わった。

もう一つ、ワイエスの絵で印象的なのが“青”の存在。私がいちばん好きなワイエスの「遠雷」。何か遠くのものに神経を集中している犬と、リラックスして寝ている女性が描かれている。その女性が着ているシャツの青が、私のワイエスのイメージである。

ローラ・インガルス・ワイルダーの世界を視覚化したような、大らかで厳しい大草原。基本的には人間を突き放したようなモノトーンの世界。そんな平坦な色調の中にすっと立っている“青”。ワイエスの絵には方々でこの“青”が描かれている。その意味は、考え中。

今日は久しぶりにワイエスの絵を観ることができた。Bunkamuraザ・ミュージアムでの「アンドリュー・ワイエス 創造への道程」。ワイエスが習作をたくさん描いていることを初めて知った。この展覧会の「創造への道程」というのは、そのことを指しているようだ。有名な「クリスティーナの世界」は習作だけで8点も展示されていた。これだけ習作を重ねる画家は、珍しい?

ミュシャは石版画で女性を描いた。石版画なので、1本の輪郭でふくよかな女性の身体を表現しなければならない。その1本を見つけるために、ミュシャは何本も何本も輪郭の線を下書きして、求めるただ1本の線を探し出す作業を何度も繰り返していた、ということを高校時代に教わった記憶がある。ミュシャほどの画家ならば、訓練と天才的な素質によるデッサン力で、すーっと輪郭を描いていたのでは、なんて考えていたので、意外な気がした。

ワイエスの習作の数々を眺めながら、そんなミュシャの制作過程のことを思い出していた。ワイエスの説得力のある圧倒的なリアリズムの裏にも、表には出てこない多くの時間と労力があったのだ。逆にそれがあってこその説得力なのだろう。

そういえばと、うちのコピーライターの親分にいつも言われることも思い出した。魅力的な1つのキャッチコピーの下には、多くの(ボツになったコピーの)死骸が横たわっている。逆にその死骸がどれだけ多いかでそのコピーの価値が決まる。ということ。素晴らしい作品ってのはこうやって生まれるのだな〜。

常々、Bunkamuraザ・ミュージアムの学芸員ってヘボくね?と思っていた私は、今回の展覧会はなかなか面白い企画じゃん、ちょっと見直した。堂々とした豪速球じゃなくて、キレの良い変化球、なんだけど、Bunkamuraザ・ミュージアムは箱自体は恵まれた環境を持ってないので、いつもこんなフォーカスを絞った企画展がいいのでは。次のピカソとクレーの展覧会、いいの? こんなんで?

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