宮澤賢治が好き。あまりにも純粋すぎ。独特の世界を持っていて、私も影響されている。

彼の有名な「雨ニモマケズ」の詩は、冒頭の数行がよく知られていて、あの部分からこの詩を、人間への励まし、祈り、人間のポテンシャルを詠んだものだという解釈や使われ方を、よく目にする。

私の解釈はまったく違っている。これは賢治の絶望の詩なのだ。賢治は『農民藝術概論綱要』の中で、「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と述べている。純粋な賢治、彼は本気でそう考えていたと思う。

しかし、考えれば考えるほど、人間というものを知れば知るほど、社会で経験を積めば積むほど、世界全体の幸福はありえるものではないことがわかったはず。世界全体が幸福にならないということは、個人の幸福もありえない。賢治はこの世で幸福は実現できない、と考えた。それでは人間はなんのために生きている? 賢治の絶望は深く、計り知れない。

でも、絶望だけなら、わざわざ詩に詠まなかった、とも思う。病床の中でこの詩を詠んだ賢治。深く絶望したが、それでも希望を捨てなかった。だからこの詩が生まれた。彼の決意だと私は考える。

「今は絶望の中にいる。この世の幸福はありえないことなのか。でも誰が悪いわけではない。人はそれぞれみんな正しい。自分は希望を捨てずに持ち続けよう。この世が幸福になる時、その瞬間がくるまで、絶望するのではなく、私は準備しよう。

それでも、自分一人で世界の幸せを背負うのは、あまりにも重すぎる。期待されては重すぎるのだ。自分はこの世のすべての幸せのために、自分の決めた道を進む。でも、期待されては辛すぎるのだ。どうか、放っておいてください。その時がくるまでは……。」

プレッシャーからの解放。世界全体の幸福を背負った宮澤賢治とは違って、私はちょっとしたプレッシャーに弱い。評価されるのが苦手。期待されるのが怖い。誰かに寄っかかりたい……。

「ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイウモノニ
 ワタシハナリタイ」

自由だなー。こういうのが自分らしいんじゃないかな、と思う。一方、仕事で仲間と力を合わせて作ることの楽しさと喜び。乗り越えなくちゃならない時期に来たのかも。

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