スポーツとは公平な条件で、勝敗、優劣を競うわけで、そのためにルールが明確にされている。スポーツは同じ土俵で闘わなくてはならない。わかりやすい。

高校野球を観ていて、不思議なことがある。いつからか、試合のイニングの合間に、両校の校歌がオフィシャルに場内に流れるようになった。なぜ? 校歌を歌えるのは勝ったチームであり、それが高校生にとってはステイタスであり目標でもあった。甲子園で勝って校歌をみんなで歌おう!というのが選手にとっても応援する生徒にとってもモチベーションの一つだったはず。

ここ数年、甲子園で2回が終わったあたりで流れる両校の校歌を聴くと、いつも複雑な気持ちになる。スポーツは勝ち負けが非常に重要。勝利をつかむために何をするか、というプロセスが非常に重要。ところが、「両校の校歌」なんてセレモニーはその勝利を薄めてやしないか。スポーツは本来、生き死にの瀬戸際という緊張感の中にあるからこそ、身震いするような感動を生む。「両校の校歌」は非常になまぬる〜い空気を感じる。

高校球児はいつでも真剣だ。昔も今も。この春の大会でもまた再試合があったし、打球を左足に受けて倒れても、「骨が折れても投げ続ける」と言ってマウンドを譲らず、優勝旗を手にしたエースもいる。そういう選手と一体になって勝利を目指す、という応援団。そして勝っていっしょに校歌を歌う。幸せだ。考えただけで涙が出てくる。だが、これは勝者だけが味わえる幸せなのだ。

「両校の校歌」はなんとなーく、そういう究極の幸せに水をさすような感じが……。お互いが順番に校歌を歌う。表面的には公平な感じ。でも、より頑張ったものがそれ相応のものを得る、というのが公平じゃなくて?

スポーツは複雑な現実社会ではできないこと、つまり究極の公平を実現する場だと私は考える。現実社会では人それぞれが、それぞれの「公平」を持っていて、それにしたがってしまうと人の命を奪ってしまうようなことになってしまうことさえある。だから現実社会ではおいそれと「公平」に従うことは危険。現実社会では勝利を手放しで喜べないことが多々ある。

でも、スポーツはできるのだ。勝者は公平に、思いっきり勝利の味を楽しんでいい。それは相手の命を脅かしたり、相手の存在を否定しないから。スポーツにおいては。この勝利の感覚を得ることは人生において非常に重要。困難を乗り越えていくモチベーションになるのだ。頑張って頑張ってつかめるんだなーっていうことが体感できる。

高校野球のテレビ中継では、エラーはリプレイしない。なんとなく解せない。納得できない。なぜ? それが公平なの? うーん。

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